夏休みに入って、一週間ちょっとが過ぎた。
じりじりと照らす太陽、うるさく鳴く蝉、照り返すアスファルトのおかげで毎日が暑い。
ぼーっとしながらも、しぶしぶと宿題を片付け始めて一週間になる。
苦手な数学を半分以上は片付けた。
お楽しみの読書感想文は、もっとあとにやるつもり。
技術の宿題はお父さんに相談して…家庭科はレシピと格闘するしかない。
理科と社会のドリルは、まだ最初の方のページで止まってる。
美術の宿題のテーマを見ては“聖夜君みたいに描ければ困らないのに”なんて思って、思わずハッとするの。
もうひとつ、宿題があったって。
この気持ちをちゃんと、言葉にしなきゃいけないって…。
「ふう・・・」
ぽすんっとベッドに横になる。
ああ、難しい宿題ばかりで嫌になる・・・。
本…読んじゃおうかな。
机の上に、どんと重ねられた本に目をやる。
夏休み前に借りてきた本たち10冊。
もうすでに2冊は手をつけてしまったんだけど・・・いいよね。
「そうだ、鳥籠カフェ、行って読もうかな」
そう思い立って、小さなトートバッグに本とお財布と携帯電話を入れて、家を出た。
「いらっしゃいませー。あ、まりんちゃん!」
「こんにちは、銀河さん」
「いらっしゃい。ひとり?」
「はい」
「宿題はどう?」
「あはは、まだちょっとしかやってないんです」
「おおっと、こんなところにいていいの?」
「読書感想文用の本、持ってますから」
「なるほどね。さ、どーぞ。お好きな席へ」
「はい」
迎えてくれた銀河さんが、にこっと笑って店内奥へ案内してくれた。
銀河さんって、お兄さんで、なんだかなじみやすくて嬉しくなる。
メニューとお冷やをトンッとテーブルに置いてくれる。
「読書のお供のおすすめはー、コレ」
メニューの中のひとつを指さす。
アイスティー?
「今年のおすすめ、アイスのグレープフルーツティー。特殊な仕掛け済み」
「特殊な仕掛け?」
「そう。他のはやってないんだ」
「・・・・・・読書におすすめなんですか?」
「そうだよ」
「・・・・・・じゃあ、これにします」
「りょーかいっ」
にっと笑って、銀河さんがお店の奥に消えた。
今の時間帯は人がいないのか、あたしひとり・・・。
だから、こんな風に接してくれるんだね。
でも、読書におすすめって・・・どんな仕掛けがしてあるのかしら。
不思議に思いながら本を取り出して、ぐるっと店内を見てみた。
前と何も変わってない様に見えて、飾ってある花々が夏の花になっていたり、写真や絵が変わっている。
絵は聖夜君ので、写真は銀河さんの。
“お孫さんを大事にしてるマスターのこだわり”だって、バイトをしてる雪さんがいってたっけ。
柔らかい絵と、キラキラの写真。
木が基調のカフェ。
この雰囲気が大好き。
「おまたせ、まりんちゃん。はい」
「ありがとうございます」
カランと氷のぶつかる音がして、かわいらしいコースターの上にアイスティーが姿を現す。
さあ、仕掛けは何かしら、と思わずまじまじと見てしまう。
「仕掛けはこれ、氷なんだよ」
「氷?」
よく見ると、普通の氷じゃないことがわかる。
「紅茶を凍らせたんだ。だから、時間が経っても薄まらないってわけ。読書にぴったり、だろ?」
「わあっ・・・嬉しいですね、それ」
「ホットじゃ冷めちゃうし、アイスは薄まっちゃうし、読書なんかだとすーぐそんなものになっちゃうからね。
おいしいものはおいしく頂いて欲しいって方針さ」
「これ、全部に?」
「さすがにそれは無理だから、おすすめの紅茶だけってわけ。
グレープフルーツは柑橘系だから夏にはぴったり。それとはい、これ」
「え?」
「実は、昨日僕が焼いたマドレーヌなんだ。サービスサービス」
「そ、そんな!」
「いいのいいの。僕の作ったヤツで売り物じゃないし。半分は美沙子にあげちゃったけどね」
「・・・ありがとうございます。でも、銀河さんってお料理するんですか?」
「いや、特にそう言う訳じゃないけど・・・」
「けど?」
「何でだったかなー、美沙子と話してて、“じゃあ作ってやろうじゃないか!”
みたいなノリになって…じいさんにレシピを借りて作ったってわけ」
「な、なるほど・・・」
美沙お姉ちゃんって、負けず嫌いなところがあるから…きっとそういう話からなったんだろうなぁ・・・。
でも、綺麗に焼けたマドレーヌ。
ふんわりきつね色で、貝のカタチで、しっとりふんわりおいしそう。
「じゃあ、頂きます」
「どうぞどうぞ」
一口食べると、ふわっと広がるミルクとバニラ。
優しい味。
「おいしいです。いいなー、あたしも料理出来る人がいれば、宿題に困らないのに」
「お母さんは?」
「うち、共働きなんで、基本家にいないんです。休日はあるけど…料理が得意ってわけじゃなくて」
「なるほど・・・何ならコレのレシピあげようか。お母さんと作りなよ」
「いいんですか?」
「もちろん。帰る時には用意しとく。じゃ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
わあ、思いがけない収穫だ。
こんなにおいしいお菓子のレシピもらえるなんて!
これで家庭科の宿題は大丈夫かな。
おすすめのグレープフルーツティーも、読書にはぴったりのすがすがしさ。
さ、本の世界に旅立とう。
そう、現実とは違う世界へ・・・。
「おう、聖夜。珍しいじゃん」
銀河さんの声が突然聞こえて、ハッとした。
え…?
聖夜君?
「別に。ちょっとアトリエに来ただけ」
「なぁんだ、そっちか」
「わざわざカフェに来ると思ったわけ?」
「そうは思わないけどさ。あ、そうそう。まりんちゃんいるよ」
「え?水海?」
突然の事にドキッッとする。
あ、あ、あたし!?
半分以下になった紅茶のグラスが、カランと音を立てた。
一度飛び跳ねた心臓は、とくとくと波打つことをやめてくれない。
つ、次に会うのは二学期じゃなかったの・・・?
ひょっと聖夜君が顔を覗かせる。
「あ、本当だ…」
「聖夜君・・・えっと、お邪魔してます」
「バカ、ここはカフェだって」
「え?あ、そうか、おかしいよね、お邪魔してますって・・・」
とことこと歩いてきて、あたしの真正面に聖夜君が立つ。
どうしよう…!
なんで、こんなに、動揺してるの・・・っ。
ねえ、あたし・・・普通にしてていいんだよ、ね・・・?
「・・・宿題?それとも、趣味?ああ、部活?」
「・・・・・・全部、だけど」
「なるほど・・・あ、その本」
「えっ」
「夏休み前に借りようって思ってたのに、ないと思ったら・・・おまえが持ってたのか」
「・・・ごめん。でも、やっぱりあたしたち、同じ本ばっかりなんだね」
「らしいな」
そう、はじめの出会いはそこだったね・・・。
同じ本を読んでる人って・・・。
そんなところからの出会いだった。
「ねえ、アトリエって聞こえたんだけど・・・?」
「ああ、じいさんに一部屋貰ってるんだ。家じゃ出来ないから」
「・・・・・・見たいって言ったら、怒る?」
「へ?」
読んでいた本にしおりを挟んで、パタンと閉じた。
「・・・・・・別に・・・いいけど・・・特に何があるわけでもないぜ?」
「うん、いいよ」
「じゃあ・・・こっち」
ついっと聖夜君が移動する。
あたしも、後に続く様に立ち上がった。
「荷物は僕がみとくよ、まりんちゃん」
「ありがとうございます、銀河さん」
わあ、聖夜君のアトリエが見れるなんて!
素直に嬉しくなる。
だって、アトリエって、それだけで素敵な響き!
あたしには無縁の場所だからかな。
案内された場所は、3階のまるで屋根裏部屋みたいな場所だった。
狭いけど、斜めになった天井がすこし可愛く感じる。
「わあ…素敵だね」
「ごめん、散らかってて」
「ううん、大丈夫」
置いてあるイーゼルには、描きかけのキャンバス。
床にもキャンバスが無造作に置かれていて、棚には絵の具や筆、水入れなんかが置いてある。
少し、つんと鼻につく香りは絵の具の匂いなのかな・・・?
「あれ・・・?」
「何」
途中だと思われるイーゼルに置いてある絵に近寄る。
水彩画じゃ、ない・・・。
これは本物のキャンバス。
「ねえ、聖夜君って水彩画じゃないの?」
「え?ああ、そうだけど・・・油絵も勉強中だから」
「へぇ・・・教室とか行ってるの?」
「一応ね」
「そうだったんだ・・・」
キャンバスに描かれた、まだ途中だと思われる絵。
たぶん、海と、空ね。
綺麗な星空と、街と、海。
「綺麗だね」
「まだ途中」
「それはわかるけど・・・でも、綺麗。ね、空と海と街、だよね」
「よく・・・わかるな、それで」
「なんとなく。だって、キラキラしてるから」
「?」
そう、キラキラなの。
星空と、まるでそれを反射するかのように輝く海。
イルミネーションの街。
画面は暗いのに、キラキラしたものがたくさん。
聖夜君の描く、透明な水彩画が好きだけど、油絵もいいなって・・・思える。
自然と顔が笑顔になるの。
不思議だね、聖夜君の絵って。
「テーマとか、タイトルとかはあるの?」
「一応・・・ある、けど」
「聞いちゃダメ?」
「・・・・・・まりん」
「えっ・・・」
その言葉に、どくんっと胸が高鳴った。
「Marine。英語で」
「・・・そ、そっかっ!・・・びっくりした・・・」
驚いた。
すごく、すごく、ドキドキしてる。
名前・・・呼ばれたみたいで・・・。
動揺するほどのことじゃないのに!
美沙お姉ちゃんだって、綾ちゃんだって、雅だって、そう呼んでくれるのに。
・・・聖夜君に呼ばれたこと・・・なかったからかな・・・。
「あ!ご、ごめん。その・・・」
「いいの、わかってる。あたしの名前、英語ではポピュラーな単語だもの」
「・・・・・・ああ」
そう。
珍しい事じゃない。
たくさんの場所で、あたしの名前と同じ響きを聞くし、見るもの。
珍しい事じゃない。
なのに、なんで・・・こんなにドキドキするの・・・?
「あの・・・聖夜君・・・その・・・」
「何」
「・・・ごめん、ね?まだ、返事出来なくて・・・」
「・・・別に、いい」
「ね、余計なことかも知れないけど…聞いていい?」
「何を?」
「あたしのどこがいいの?」
「はあ!?」
「だって、あたし成績は普通だし、可愛くもないし、かといって美人じゃないし、
運動も音楽も美術もぜーんぶ普通の平々凡々な女のコで・・・・・・本の虫っていうだけじゃない」
「・・・・・・」
「だから・・・その・・・」
「おれは水海と一緒のクラスじゃないから、成績だって運動だって芸術だって何一つ知らないけど」
「そ!それは、そうだけど・・・」
「だからさ・・・そういうんじゃないんだよ。どこが、とか、どんなところが、とか・・・そういうんじゃなくて・・・」
「じゃなくて?」
「一種の感覚、かな。強いて言うなら、全部ってとこ」
「!」
「頭が良いからとか、運動が出来るからとか、そういうのって関係ないだろ」
「・・・・・・うん」
「おれが好きになったのは、ただ本が好きで読んでるおまえだよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「それが本来の姿だと思うけど、違う?」
「・・・違わない」
「ったく、恥ずかしいこと言わせるなって・・・」
そう言うと、ふいっとあたしに背を向けた。
・・・照れてる。
聖夜君って、意外と照れ屋さんなんだ・・・。
「・・・ありがと」
「別に、お礼言われることない」
「うん。でも、ありがと」
ピピピピ。
どこからか電子音が聞こえてきた。
「ああ、ごめん。おれだ」
そう言って、聖夜君が携帯電話を取り出す。
「・・・兄さんからだ。降りてこいってさ」
「聖夜君の携帯、あたしのと色違いだ」
「ああ、これ?水海も持ってるんだ」
「うん」
「じゃあ、あとで教えてよ。番号とか」
「・・・いいよ。あとでね」
一瞬、迷った。
教えていいか、どうか。
でも、あたしも知りたいと思ってしまった。
携帯電話って、特別な気がしてならないの。
だって、教えないと知ってもらえないし、教えてもらわないと知れない。
ちょっとした、秘密の回線な気がするの。
今も、あたしの番号を知ってるのは、両親と、綾ちゃんと、ほんの数人の友達と、美沙お姉ちゃんくらい。
はっきり言って、この電話は両親と連絡を取るためだけにあるようなものだもの。
親しい人たちしか知らないから、一瞬迷ってしまったのかも知れない。
「行こう。兄さんがお呼びだ」
「うん」
聖夜君に続いて、カフェへと続く階段を下りていく。
「おー、来た来た。おそいっつーの」
「ゴメン。で、何?」
「美沙子が来たから呼んだだけ」
「美沙お姉ちゃん!」
「やっほー、まりん。来てるっていうから呼び出してもらっちゃった。聖夜君、久しぶり」
「お久しぶりです、美沙子さん」
下に降りてみると、レジカウンターに銀河さんが、その横に美沙お姉ちゃんが立っていた。
ふたりは恋人同士なんだから、何の不思議もない、わよね…。
「え?なに?ふたりってつきあってるの?」
唐突に美沙お姉ちゃんが言う。
ふたり、というのはあたしたちのこと!?
「ち、違うよっ」
「なぁんだ。残念。お似合いなのにー」
「もう、美沙お姉ちゃんッ」
「ハイハイ、中学生ってかわいーなー。純情よね」
「ホントホント。美沙子もあのくらいの時はかわいかったのかなー」
「ちょ、銀河っ!」
「あははは!」
「もう・・・。あ、まりん、ちょうどいいや。あのね、おばさんに渡して欲しいものがあるの」
「え?」
「ほんとは、まりんの家に行ったんだけど誰もいなくてさ、帰ってくるまでここで暇つぶそうかなーって来たのよ」
「ごめんね。でも、アタリだったね」
「ほんとに」
氷がすっかり溶けてしまった紅茶のグラスが置いてある、あたしがさっきまでいた席に戻る。
トンと美沙お姉ちゃんが袋をテーブルに置いた。
「よろしくね」
「うん、わかった」
それだけ言うと、美沙お姉ちゃんは、またいそいそと銀河さんのトコロに戻ってしまう。
…微笑ましいなぁなんて、思っちゃう。
銀河さんと一緒にいる美沙お姉ちゃんは、あたしが知っている美沙お姉ちゃんとちょっと違ってて、なんていうか・・・可愛い。
そんなこと言うと怒られそうだから、言わないけどね。
紅茶のグラスを空にして、持ってきた本を鞄にしまう。
今日はもう、ゆっくり本を読めそうにないから。
美沙お姉ちゃんに預かった小さな袋を一緒に鞄にしまって、携帯電話の存在に気がついた。
「聖夜君、約束だったよね」
「え、あ、ああ。そうだった」
銀河さんと美沙お姉ちゃんにすっかり気を取られていて、忘れそうだった。
教えるって約束だったもんね。
聖夜君の携帯は白、あたしは水色。
なんだかとっても“らしい”色合いに思わず笑いそうになる。
だって、ほら、名前とぴったりじゃない?
「水色か・・・名前通りってやつか」
「・・・あたし、ピンクってガラじゃないの」
「まぁ、確かに水色の方が似合うな」
「・・・ありがと。聖夜君も白で名前通りだね」
「・・・・・・?」
「ほら、雪みたいで」
「ああ・・・なるほど。思いつかなかった」
お互いの情報を交換し合う。
ただ、それだけなのに、ドキドキした。
なんだろう。
あたし、あの日から少し、おかしいみたい…。
「じゃあ、あたし、帰るね。預かりものもできたし」
「ああ。・・・今度、連絡する」
「・・・・・・うん」
席から立ち上がって、銀河さんたちの元へと向かう。
「あ、まりんちゃん。コレ、例のレシピ」
「わあ、いいんですか?」
「どうぞどうぞ。それと、紅茶はおごりでいいよ」
「え、でも!」
「いーのいーの。美沙子がついてきたから」
「なっ!アタシはお金ですかっ」
「あはは」
銀河さんからレシピを受け取る。
これでひとつ、宿題がまた進みそう。
でもいいのかな・・・紅茶・・・。
「気になるならさ、また今度写真撮らせてよ。それでチャラ。ね」
「・・・はい。ありがとうございます」
「素直でよし。じゃあ、またね」
「はい。聖夜君も、また」
「ああ」
「美沙お姉ちゃん、わざわざありがとうね」
「いいわよ、それくらい。気にしないで。おばさんによろしくね」
「はぁい」
みんなに見送られて、鳥籠カフェを後にした。
・・・好きだなぁ、あの空間。
そうしみじみと思った。
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